『一家団欒』20.9.21
目の前に立ち上る白い煙に目を痛めつつ、悪戦苦闘している。
風上に行こうが、風下だろうが、新聞紙から立ち上るそれは犯人を追跡する探偵のようにやって来て、自分を攻撃するのだった。
多分、煙にも自我があるのに違いないと涙の出る細めた目で睨みつつ、なんとか炭に引火させるのに成功し、妻の名を呼ぶ。
「おおい!さゆり!ついた、ついた!!」
彼女はそんなでかい声で呼ばなくても聞こえるよ、といった風で億劫そうに近付く。
「へぇ。案外、そんなことできるんだ」
期待していなかったというのが見て取れる。さゆりはいつも冷静というか、私を頼ってくれず、何でも一人で解決しようとするところがあり、不満だった。だから、こうしてもっと父親らしく活躍するのを見せれば、変わってくれるだろうと思い、なんとか言葉を尽くして説得し、腰の重い妻とBBQがなんだかよく分かってなさそうな娘を休日に連れ出したのだった。
「じゃあ、今から肉を焼く。アレ、どこやった?あのあれ、しかくいの」
「クーラーボックスでしょ。」
といつもの呆れ顔で訂正しつつ、プラ容器入の豚肉の切り身を手渡す。
「大体、わたし外で食べるの好きじゃないし、こんなの衛生的じゃないと思う…………。」
彼女が家でも言っていたブツブツを聞き流しつつ、トングで肉を網に移していく。コンビニ前で虫を落とす青色のアレのような音を立て、油がブジュブジュいった。
本当は牛肉の方が美味しいだろうし、BBQっぽいから買いたかったのだが、さゆりが高いからと豚しか購入させてくれなかった。折角二人にも良い記念を作ってやりたかったのだが、うん、これならうまそうだ。いけるだろう。
怪訝そうな妻の側で、水色の固まりが雑草を一心に毟っている。娘だ。
草なんか毟ってどうしたと以前聞いたら、四つ葉のクローバーを探してるのだと怒られた。一緒に野草で冠を作ってやると、ナデナデされた犬のような顔をしていた。
二人で土塗れになり、それらの土産を家に持ち帰ると、さゆりは風船の破裂音のように「汚い!」と吐き捨てた。娘は固まった。ゴミ箱に捨てさせられた冠や三つ葉をチラチラ何度も見ていた。妻は、そんな彼女より汚い服を洗うことの方が不快らしく、ちっとも気にしていなかった。
「あなた。ねえ、火がちょっと、弱いんじゃない?」
彼女は持ってきた生肉用の割り箸で肉をひっくり返すと、確かにあまり焼けていない部分もあるようだった。
「今日、ちょっと寒いし。あんまりモタモタするとあの子風邪引くよ、先週の土曜だってネツだして………」
さゆりは長袖の腕を擦りながら、もえを見やる。
もえは、しょっちゅう熱を出す。小学三年生にしては身体が弱いかもしれない。酷い時には毎週末のように寝込んだ。冬にはインフルに罹り、40度のぐんにゃりした死にかけの猫のていで小児科へ連れて行く。
彼女は玉薬が飲めず、妻は砕いた市販のパブロンをスーパーカップやチョコレートソースに混ぜ、飲ませようとした。アイスならまだしも、チョコソースは極端に粘って甘く、粉のようになった薬は舌に貼り付いて苦い。もえは、さゆりにバレないよう、スプーンからティッシュに少しづつ移し、少しだけ舐め、「飲んだよ」と言うのを私は知っていた。
うーんと考えてから、最初に使用した着火剤を足すことにした。アウトドア派でないからBBQなんて慣れてないけど、しどろもどろで格好付かないところを家族には見せたくないし、必死に読み込んだ『簡単!アウトドアの極意』というページに、炭はなかなか火が付きにくいと書いてあったからだ。
登山やキャンプ好きな会社の同僚に貸して貰ったコンロは火のところが引き出しになっており、そこを出せば簡単に炭の調整が出来るようになっていた。
マヨネーズに似た着火剤の容器を絞る。どのくらいだろう、もうどやどや言われたくないし、面倒だし、多少強ければ後で加減すればいいか。残りのゼリーを全て投入した。
変な破裂音がしたあと、顔の皮膚にぐいっと押されるような圧力を感じた。そこだけカラッポになったように何も感じない、いや刃物で突然刺されたようになった。
「ぁ”あ”あ”あ”あ”!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
気が付くと怒声が肉体から発されていた。
なんだこれ。髪の焼けるいやな匂いがして、そこで初めて自分の顔が焼けたのだと分かった。
ボッと火柱が上がっている。
「さゆり!!!さゆり、水!!!!水もって来い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ふいに上体もサウナになっているのに気付く。見ると、フリースが燃えていた。服を伝って顔まで火が覆っていた。今朝、「今日は寒いから」と妻がこれを勧めてくれたことを思い出す。
またしても獣のような咆哮を上げ、火を消そうと土混じりの芝生に転がる。
先ほど自分の居たところも茸のように転々と燃えている場所があり、プラスチックの破片のようなものがいくつも散らばっていた。咄嗟に着火剤の容器が破裂したのだと分かる。服にも付いたようで、火の勢いは増すばかりだった。
「うううううううおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!さゆりぃぃいいいいいいいいいいいいい」
近くに川も無く、水も用意していなかった。とにかく、いつも困ったときなんとかしてくれる妻の名を叫ぶしか無かった。
♢ ♢ ♢
蟻につつかれる芋虫のように、ごろごろ動き回るソレを、ただ黙って見ていた。
「ママ………」
娘もホラー映画の宣伝を見たときのように顔を隠したりせず、凍りついた目でそちらを凝視している。
「ママ、パパ水って言ってる…………ねえ」
母親の服の裾を掴み、今では全身を、見たこともない赤い生き物が侵略するように這い回るソレから自身の上へずらすと、そこで言い止まった。
彼女の表情は想像していたような狼狽したそれではなく、ただ…………なんというか。
信号待ちをしているときのような、客の来ない時間帯のコンビニ店員みたいな。
そういう、『なんでもない』表情だった。昼間、家事もなにもやることがなく、ただ持て余した時間に、退屈な観たくもない三流ドラマを観るともなく眺めているような。食べようと思ったスナック菓子がもう残ってなくて、目もやらず袋をプラごみに投げ捨てるときみたいな。
もえは、自分のみたものがなにかとてつもなくイケナイものだったような気がし、すぐ下を向いた。
父が仕事中、彼の部屋で勝手に遊んでいて、ふとベッドの下に収納ケースがあるのを見つけた。それは百均で売っているような、簡素なざらざらした布でできた、同じ素材の取っ手のついたベージュの長方形だった。
もえはそれを引きずり出し、中を見た。母は、ホコリなんか大嫌いで、こんな床に収納など決してしない。だから彼女はそれをめずらしく思った。
本がいくつか入っている。ぺらぺら捲ると、裸の女の人が足を広げてポーズを取ったり、なにかを咥えている写真などが載っていた。以前も、この部屋に落ちていた漫画雑誌に、風邪を引いた男の人と、見舞いに来た女性が布団の中で口を付けたり、身体をさわっているのがあり、それをよくわからないが気に入ったことがあった。
今もなんとなく読み進めていると、バッと本が上にいなくなった。
母が後ろに立ち、取り上げていた。鳥の死骸でもみたような顔をして。
あ、これはイケナイものだったんだな、となんとなくわかった。
当然、その日、帰ってきた父と母は大モメした。ケンカというより、父がイッポウテキに責められ、不機嫌そうにしながらもほとんど言い返したりしない。こんなのはしょっちゅうで、その時の彼女は酷くヒステリックであった。
私も居るリビングで父の食事中にするので、部屋へ退散すると、「ホラ逃げちゃったじゃない………」という母の声が聞こえた。
あの時のあの雑誌みたいな、そういう『私が見てはイケナイもの』という気がした。
娘と母は、壊れた自転車のブレーキのような壮絶な音を発する、転げまわり毛をくねらせるばかでかい毛虫みたいなものを、電池が切れるまでずっと眺めていた。
空はどこまでも高く、オレンジ色になりつつある雲は、ただ平穏な日々を象徴していた。
END