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 『あのねのね』 21.3.29に書いたのを8.8にup。

 控え目なブルーハワイの空に、フロートがいくつも浮かぶ。下に行くにつれソーダの割合が増し、透明に近付く。
 人のいないホームの屋根と屋根の間に切り取られた空はそんなだった。
 行ったっきりのゼロ・グラビティ、すぐそこに鉄の巨体が放つ圧迫感。全身を振動が包み込み、一瞬遅れてバァー!と警笛だと分かる。
 身体が自由になり、枕木に吸い付けられる。腹が右から左へ押し千切られるのが分かった。

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 白い蛍光灯を反射するワックス掛けの鈍い床。商品の陳列された棚が図書館のように並ぶ。隣を見ると英字ビスケット、チョコがけナッツ、マシュマロと安っぽいスナックがぼうっと座っている。
 にんにくチューブってどこだろう。店によって位置が変わるからフラフラ徘徊する。卵や野菜は大体入口の近くだし。
 刺身パック、徳用お好み焼き粉の袋にマヨネーズ。無限に置かれる商品は際限無く視界に入り込み、脳はボウルの中の天ぷら粉のようにゆるく掻き合わせられる。
 床や壁はてらてら白く光り、非現実を思わせた。売り場では、台に取り付けられた光る小さな画面がレシピを表示しながらやたら軽快な音楽を流し続け、それらを一層助長させた。
 なんとか目当ての商品を、発掘した分だけカゴに消えないテトリス化しレジに並ぶと、後ろにたくさん他の人も連なる。平日の夕方は客が多く、店員のおそらく感じてる焦りと、待ってる人達の存在が私を浮き上がらせ、なぜかとても注目されている気になり、走り出したい、じっと立っているのが苦痛になる。
 早く、早く自分の番が終わらないか。
 ふと意識が削がれ遠くなり、あれ、そういえばどうしてここに立ってるのだろう。手にカゴの重さがあり、ああ買い物に来たんだった…と思い出した。
 外へ出、見上げると、来たときと変わらないグレー地にパステルカラーの虹がかかっていて、スチームのように細かなシャワーが地面をスプリンクラーとして濡らした。
 いつも同じ空だから傘なんかもう持ち歩かない。周囲の人たちもフードを被る人もいる、くらいで普通に歩いているし、鳩の群れだってノンビリ道端で羽根に顔を埋めまどろんだり、中年のおっさんの無造作に撒くパンを啄んだりしている。
 ここへ来たばっかの頃は、これじゃ一生洗濯物乾かないじゃん!と絶望したものだが、ここのシーツは雲のように薄くて軽く、朝洗ってしまえば昼までに乾いた。
 なぜずっと曇り空なのに虹が出続けるのかも暫く考え続けていたが、夜に見える「月虹」という珍しいのもあるらしいし、曇りでも見えることがあるらしいからそんなもんかと納得した。
「こんにちは。今日はあったかいねえ」
 半分意識を飛ばしつつ歩くところへ突然投げられた音のボール。あやうく取り落としかけつつなんとか掴み、思考を現実に引き戻すと穏やかに笑む知らないおばさんがいた。
「こ、こんにちは…そうですね?エヘヘ」
 幼稚園以下の対応力で、半分笑いながら逃げるように早歩きで去った。
 
 アパートへ帰ると私の腹くらいの身長の天使がエントランスでチラシの束を抱え、こちらを見ると花を飛ばしうれしそうに近寄ってきた。
「あ!おかえりなさい!!あのこれ今度のイベントですよ~ぜひご参加ください!!!」
 押し出されるように紙を受け取る。そこには今週末、ホテルを市が貸し切り、レクリエーションを含む食事会が開かれる。参加費無料奮ってご参加ください!というのと、このチラシは再生紙を使用していますと書いてある。触ると確かにザラつく。
 視線を前に戻せばまだ間近でニコニコを続ける天使に軽い会釈をし、行けたら行きますと実に日本人らしい返答をした。
 バイトをし、買い物して帰って来ればもうヘトヘトだ。洗面所でコンタクトから眼鏡に戻し、すぐリビングのソファに座り込む。
 スーパーの惣菜で働いているが、私は自分の働くとこで買い物をしたくないから別の店へ行く。家の近くに二つもスーパーがあり、とても助かっている。
 バイトは朝8時から12時の4時間だが、立ちっぱなしでずっと仕事があり、くたびれた。昔からずっとこうで、学校もバイトもそれひとつやれば他のことなど何一つ出来なくなる。学校帰りに遊んだりバイトする同級を見ては超人と思ったものだ。
 冷蔵庫から昨日作っておいた肉野菜てきとうにイタメターノをチンし、ごはんと交互に口へ運んでいると、耳につく音が響く。スマホの画面は何か電話を知らせたが、慌ててウッカリ切ってしまった。しまった誰からだろう掛け直さないと、とホームを開けばすぐFINEにメッセージが来ている。さっきの電話はFINEオーディオだったようだ。
 内容は、「あさって出勤出来ますか?」バイトの先輩からだった。未だに他人からSNSで連絡が来ると昔のことを思い出し背が冷える。
 先ほど電話切ってしまいごめんなさい、出勤可能ですと送ると、気にしなくていいよ、明後日よろしくお願いします!と返ってきた。
 
 狭い洗い場に立ち、冷水で米を研ぎ続け手は皮を剥いたように真っ赤に熟していた。
「霜焼けになっちゃうよー、お湯使っていいんだよ。」
 一番若い先輩が心配してくださる。
 痛みや寒さ、疲労などを感じる間、それに耐える間だけは生きてる実感や意味を感じられたが効率が悪いため次からはお湯を使うことに決めた。

 人の波、豪奢なカーテンに壁一面の大きなガラス窓、沢山の長机に置かれた大量のごちそうたち。人はトレーに入ったイクラのようにあっちにもこっちにもどこでも視界に入ってきて、幾つかずつ連なり、纏まっているから筋子のが近いかもしれない。
 かわいそうなほどポンコツな脆弱脳ミソはこれらの情報量を捌けず、どうすべきかキョロキョロして固まっていると、少し歳上の会社員のようなひっつめにした女性に声を掛けられる。
「これ、どうぞ」
 差し出された皿には既に盛り付けがされており、一口パンと四角いでかいバターにはちみつ、なんか美味そうな白いソースの掛かったハーブ入りソーセージに、シーザーサラダがベンツのマークのように綺麗に収まっている。
「あっ、ありがとうございます。」
 首を垂れつつ銀に光る装飾付きのカトラリーも受け取り、どこで食べようか見渡すと、私のみぞおちくらいの背丈の女の子が「あそこ空いてるよ」とニッコリ教えてくれた。どうもありがとう、とテンパりながら小さな丸いテーブルに着く。
 今日は例の『食事会』で、本当は来る気など少しも無かったのだが外出しようとしたときこないだと別の天使に捕まり、あれ!まだ行ってなかったんですか、もうはじまっちゃいますよいそぎましょう!!!!と引っ張ってこられたのだった。
 慌てっぱなしだったのがちょっと落ち着いてみると、天使混じりの演奏者たちがシャンデリアを優美に反射する金の楽器たちで緩やかな渦を巻く水の流れに似た音を会場に満ちさせ、料理のいい匂いがいっぱいに広がり、集まった人たちは皆楽しげに談笑し、温かな光に溢れていた。
 一口ソーセージを含むと、おいしい!と小声で言ってしまうくらい満足だった。スゴク単純だから、やっぱり来て良かったかもとか思う。
 案外お腹が空いてたらしく、バクバクと平らげ、折角来たのだしケーキも取ってこよう!と欲を出しつつ立ち上がると、生成りの上品な植物模様の壁と曲線をつくるシャンデリアが真っ白く広がり、テーブルの上の料理たちや椅子、カーテンも沢山の人もそれらがもつ意味から切り離され、全て等しく脳に流れ込む。心地よかったはずの音楽も人の声と混ざり合い雑音となる。
 自分が大きくなり世界がミニチュアみたいな、または自分が人形のように小さくなるような感覚。またこれか。スーパーで得たのと同じで、それが強くなったようだった。
 何かが違う。
 何で私はここにいるんだろう、別のどこかにいた気がするのに思い出せなかった。
 ここに居てもいいのかが分からないどうしても。

 二ヶ月ほど前。
 ちょっとずつ色の違うつぎはぎだらけで通っていた学校の校舎を想起する4階建て、小さめな段を踏み外さないよう2階へ上る。
 引っ越してきた手続きをしようとするも自分の新しい住所すら言えず、必死に底に穴の開きかけたきったないリュックの中から書類を引っ張り出し、顔があつくなり汗を掻きながら話していると役所のおじさんに笑われちょっとかなり恥ずかしかった(いやな嘲笑ではなかったけど)。
 引っ越しは初めてだから緊張した。
 これ以前にどこにいたかハッキリと思い出せないし、何故ここへ来たかも分からなかった。
 
 バイトのお給料を貰った。今時手渡しで。正しい金額を受け取ったことを示すためサインをし、誰かに取られたらどうしようとリュックにしっかり仕舞い込む。
 家で封筒を開け再び確認すれば、お札が数枚に小銭が出てくる。本当に働いてたんだな、と給料を見るたび思う。週4回ほど働いてもそもそも時給が低く大して稼げないが、ここでの暮らしはお金が無くとも維持できる仕組みだった。
 社会福祉制度が発達しており、当然自分の得た金銭で買い物もできるが、収入の無い人でも食品や家賃などを保証して貰える。役所は『平等な暮らし』をモットーにしていた。
 その代わり、ある程度行政と密接な生活だ。例えば、ずーっと家に引き籠ってゲームなんかしてると天使が物理的にスッ飛んで来、生活習慣を見直していく。結局健康に良いしそれで気持ちも明るくなるから文句を言う人はそんなにいないけど、どこまでも自堕落になったりは出来ない。だから、「ある程度ちゃんと自分で生活できるなら」無職でも構わない。そんな感じ。
 ただ、大抵の人は私みたくバイトや正社員として働いたり、習い事の講師やボランティアなど多かれ少なかれ社会参加をしている。多分することが無いと皆も不安なんだと思う。

 トレイに詰められラップを掛けられた惣菜たちに値札シールを印刷し、次々貼っていく。幾つも幾つもありめまぐるしい。
「ごめんなさい、これなんて名前でしょう」
「ユーリンチーだね。グラム123円。」
 ありがとうございます!と言いすぐ画面を操作し値段を表示させる。それが終わると鶏肉を漬け込むたれを作り、洗い物もし、米を洗う。家事ってとても体力の要る仕事なんだなと実感する。脚が痺れてきていた。
 包丁を規則的にトントン上下させる。薄く半月にスライスした玉ねぎを4個分生産する。
「手気を付けてね、切らないでね。目痛いでしょ、もっと水つけたらいいよ!」
 先輩のおばさんが気遣う。
「あ、眼鏡だから沁みないので大丈夫ですー」
 最近コンタクトは目が痛いため眼鏡に曇り止めを塗り付け出勤していた。
 厚さ数mmほどの白い月は、中心部分が外れると今度は雲色の虹になる。いつも見てる虹を沢山作り出すのは何だか愉快で、ガンガン切っていく。と、眼鏡の奥が歪み、視界不良になる。
「あー、段々沁みてきた!」
「水つけんさい水。」
 すると横で見ていた別のおば(あ)さんが、
「うん、友達じゃないからね。」
 と突然言う。以前も注意されたが、喋り方に気を付けろということだろう。確かにそうで私が悪いのだが、向こうは大抵歳下の私に平生の言葉で語り掛けてくるのに、明らかにガキとしか見られていない感じがし、正直イラついた。だが、
「はい、ごめんなさい!」
 すぐ謝り、もう余計なことは話さないようにしようと決めた。
 それでも仕事は決まったことをするだけでやりがいもあったし、その間は余計なことを考える余裕が無いから良かった。親や祖母ほど歳の離れた人ばかりだったが皆いい人たちで、キレて八つ当たりしてこないし、何でも聞けばちゃんと教えてくれる。
 外へ出るとアスファルトが白く、目が開けられない。コートを脱ぎ、腕に掛ける。ボンヤリと暖かで白いフィルターのかかったような世界はツクリモノのような気がして疑わしい。そこをノンビリ穏やかに歩く自分も何かおかしい気がした。
 日々がとても安定した暮らし。恐しいほど。

 ちょっとだけ休もうとベッドに横たわり瞼を閉じ、ふと再び現実に戻るともう夜の8時だった。いつの間に寝てしまっていたらしく焦る。寝る前は確か16:30くらいだったのに……。グレー混じりの水色から薄ピンクに移行していた窓はとっくに墨色に切り変わっている。
バイトで疲れた日はこんなのがしょっちゅうで、ちょっとずつ足りない睡眠を補ってるのだろうが時間を無駄にすっ飛ばした気がしてちょっと怖かった。
 夜、ベッドに入り、脇に置かれた本を手に取り読み進める。
 少しして、手が滑り本を数度落とす。更に文字の羅列を追うと、段々車酔いと眩暈に近いグニャグニャした浮遊感。仕方なく点けていた一番暗い電気を消す。
 
 ここは娯楽が発達しており、美味しいご飯どころや渓流下り、トレッキングなどのレジャー、屋内のゲーセンに遊園地も選び放題多種多様豊富にあったが、正直余り活用できていない。ずっと価値のある、意味のあることをし続けなきゃならない気がして、とにかく何かを成さねばならぬと何も手につかない。だけど身体がやたら重かったりそもそも人より出来ることなど何もない。
 ただ疲れて横になったり少し買い物をすれば後は何も無いのが私の休日だった。
 
 やや薄暗い通路の両脇には質量のある水槽が続く。平日だから空いてるだろうと思ったが、意外と家族連れやカップルが多く、少し縮こまって歩く。
 ガチで何もしない、出来ない休日の方が余程意味が無いと焦り、たまにはと近くの水族館へやって来たのだった。
 前方からのカップルが顔を見合わせ笑う。自分が笑われている気になり、帰りたくなる。服装がやはりダサいのか、容姿や歩き方その他全てか。
 誰もただの他人、私などいちいち気にするわけもないのだけどいつもどうしてもそう思ってしまう。平静を保つふりをし身体の外側を木のように固めてやり過ごす。
 変なカタチの生物など見て気分転換にはなったが、一日中こんな風で疲れた。
 この街の、花に似せクルクル巻かれたハムや人参にきゅうり、ひよこ形のゆで卵に私は食べられないけど鮮やかなプチトマトを乗せたブーケサラダのような暮らしに、自分は乳化しない油みたくいつまでも混ざり合えないような気がした。

 帰宅してみるとポストに封筒が入っている。またワケ分からんDMかと掴むと、なんだかものものしく『親展』『重要書類』と赤いハンコがしてある。なんだろう触法行為でもしたのかしらとリビングで開けてみると、
『居住区斡旋時の不手際へのお詫び』
とある。なんのことかサッパリサラダどれっしんぐ頭の悪さを舐めるな。読み進む。
「居住区斡旋時に不手際が御座いましたことをここにお詫び申し上げます。
一◯五九番地と通知致しましたが、正しくは二五九番地でした。誠にごめいわくをうんぬんホニャホニャ。」
 というような内容だ(と思う)。つまり、最初に割り振られた住所が間違いってこと?
 昔からずっと記憶力は死んでたから気にしてなかったけど、そういえばどうやって来たんだったか。一人で決めたんだっけ?
 分からない……。
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 草は目に痛い蛍光で鮮やかに光る。街路樹、道の端のひび割れ、庭木が生い茂り、樹木は葉を富豪のように蓄えている。
 空は真っ黒い程澄み切った濃い青で、爽やかな白が絵の具を擦り伸ばしたようにアクセントをつける。
 引き攣れた住宅街の小さな公園には二人用ブランコ、小さな砂場、滑り台、なんか乗ってビヨンビヨンして遊ぶドーブツのアレ×2、丸い回転するジャングルジムがあったが、誰もいない。
 ブランコでも乗ってやろうかと思ったが、紫外線照射そーちLvで照りつけてくる光線に気後れし、やめた。
 どこまでも明瞭な輪郭を浮かび上がらす強烈な光線は、でも暑くはない。寧ろ肌寒いような。へんな感じだ。薄ら寒いのに鮮やかな、夏休みに似た世界をギリギリと抉り出し固定し、ステンドグラスのようにパッキリ面を分けていた。
 そこらをブラブラする。現実なのか確かめようとコンクリの塀に触るが、よく分からない。
 遠くに見えるマンション、きっとあれは際限のない距離だと、歩いてゆこうとするのだが、暫く進むと見えない壁があり進めなくなってしまう。どの方向でも同様だ。明るい世界はどこまでも続くように見えるのに、どこへも行けないのだった。
 そして、ここには誰も、自分しかいない。今も、一度も、動物すら見掛けない。
 探索は一旦諦め、帰ることにした。
 赤茶のレンガ造り、二階建ての一軒家のブ厚い木製の扉を開ける。ここでの!Myhouse!だ(意味不無駄表記)。玄関を入ると二階までの吹き抜けで、正面に途中で折れる木の階段がある。リビングと寝室が一階と二階それぞれ、トイレに至っては三つもあった。一人なのにこんなに広くてどうする、前のとこはあんなに町中人だらけでマンションも普通のワンルームに風呂トイレキッチンだったのに。変だなと思う。
 
 炊飯釜に3合分、米をカップに計る。ザザァーッ、ザザァーッと荒い波に似た音と時々一粒二粒縁に当たり小さくキンと金属音がした。
 途中ボーとして今何回目だっけとなりかけたが黄金の集中力で耐えたわよ!
 しゃこしゃこ水を入れ研ぐ。
 現実に自分が干渉してるのが不思議だ。手を動かすと米が動くのが分からない、身体が思うように動くのも、他人が自分に話し掛けてくるのもわからない。そもそも他人から自分が知覚できるのから実感が無いのだから救えない。
 時計が23時を指し、することもないし寝室へ向かうが、まだ陽は落ちていない。
 外は変わらない真夏の真っ白のまま、パッと見あたたかで穏やかなようでいて実際は冷え切り全てがそこで停止している。ここはどういう訳か夜が無い。
 眠るときは昼寝するときのように遮光カーテンをばっちり閉め、眩しくないようにして寝る。
 日光を浴びな過ぎるとビタミンなんとか、BだかDだかが作られずクル病になったり骨が弱くなったり生活習慣が乱れ自律神経も狂うから良くないと聞いたことはあったが、反対も考えものなのではと初めて考えた。
 一日中こうでは時間感覚がおかしくなるし、疲れてもずーっと明るいまんまだから眠くなりにくいし、光がとんでもなく強いとカーテンをしてもまだ部屋が薄明るかったりする。精神的にはいつでも昼寝のようなもので、あまり熟睡できない。
 落ちない陽は完全な閉じられた空間を際立たせる。無限に続く今日、毎日何一つ変わらないまま続いてゆき終わりは永遠に来ない。
 ここではすべて単なる物質で、一切含みをもたず、外側だけがある。私も肉体だけが現実に置いてあり、それを動かすための内面がカラッポだ。腹の辺りからエネルギーが全て抜け出てスースーする。
 切り取られた鮮烈な空間を見つめつつ余り味のしない食事を摂った。

 あれから私は二択を迫られた。
 このまま一◯五九番地に住み続けるか、二五九番地へ移るか。
 本当は二五九番地へ移るべきなのだが、書類によれば「こちら側のミスだしあなたは問題も起こしてないし、空きもあるから今のまま住み続けてもいいよ」とのことだった。
 どちらにしようかな天の神様の言うとおりなのなのなすびあのねのね。信じる人には居てもそうでない私には居ない。
 悩み、取り敢えず役所へ相談に行った。戸籍住民課のメガネを掛けた白髪混じりのおじいさんは、それなら見学してみればいいかもね、それから決めても遅くないよと言ってくれた。そんな良い方法があるなら早く言ってくれよと思ったが、そうしますーと書類にサインだけした。
 一ヶ月程度お試しで住んでみて決めてと言われたが、若い役所の職員の男性は、こんなこと言うのアレだけど、でもここに一度住んだらあっちに移りたいとは思えないと思いますけど、と何か愉快げに言う。
 そうなんですかと尋ねると、やはり口角を上げながら舌を回す。

「だって幸福を知ってしまったら手放せないでしょ?」

 帰っていらっしゃると思いますけど、その時はまたよろしく、とまた軽く笑みながら言った。

 ここはスーパーにも誰もいないが品物は揃っていた。ホンモノなのに全て食品サンプルのように生気が無く、買う気が引けたが野菜や魚、肉をカゴに入れる。葉物や特にモヤシなんかはすぐ痛むのに、腐ったりしていない。不思議だ。全体的におままごとのような感じで、本当の世界では無い気がした。
 レジはどうしようと思うとオートで、金属板の台の上にカートを乗せると液晶に数字が出た。
 あっ、お金…。
 しかしちゃんと財布にはここでの通貨が入っていた。数えながら機械の穴に必死にお金を詰めている間も、気が狂いそうな現実味の無さと戦わねばならなかった。
 
 自室で本を読んでいると、隣の部屋から音がし、自分を責められている気がした。自室では特に、少し上辺りから誰かに見られているという感覚が頻繁にある。
 気を紛らわすためよく音楽をかけたが、TVは余り点けなかった。ニュースは聞いたこともない県や地域の報道をしたり理屈の通らない内容も多く、でもまだマシだったが、バラエティでは見たことない芸能人が、綺麗だったり派手な服装、髪型や化粧をし、わけの分からない話題に大きな声で笑ったりするのがどうしても別世界のこととしか思えず、すぐ消してしまう。
 3日目。リビングで朝昼ご飯していると、何か大きな空気の振動のようなものが近くであった。ビリビリして、なんだ、と思うとまたそれがくる。バクハツでもしたかと思ったが次は音だとわかる。何かから大きなバリバリした音が出てる。空気も一層凍りつくように固まる。長く続くソレに耐えていると、だんだん怒声であるらしいことも理解する。言語かすらも知らないが、とにかく不快とか怒りの破裂するビリビリした何かが自分に向けて一身に発されてるのだった。
 圧に逃げ出すことも出来ず、ただマネキンのようにカラッポにしてやり過ごす。このやり方も見知ったような、覚えてない。
 今日はなんのゴミの日だっけ。
 
 あれから何度も、リビングではしょっちゅう、自室にいてもあのビリビリを出す「何か」が来、私に悪意を吐き出す。
 外へ出ても行くあてもない。出来ることもすることも無い。
 ここへ来てからずっと何処へも行く場所など無かったのだと思い出す。外でも家に居ても。何処へも辿り着けはしない何処かへ向かっていたのは思い込みでそもそも歩き出してすらいなかった。
 だけども向こう、一◯五九番地では得られなかった『生きてる実感』があった。アタマが凍りつきヒビ割れバシバシ刺激される感じ、全てのことは自分でなんとかするしかないという心からの実感。肌寒いだけの空気と身体。
 
 これがずっと欲しかった。
 
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 前のとこ、一◯五九番地は市役所の彼の言うとおりスゴクいいとこだった。
 ごはんは美味しいし、皆自分が満たされていて余裕があるから他人にも分け与えられる。劇的なことは何も起こらないし都合の良いことばかりでもなかったけど、いつも穏やかな薄曇りで虹がかかり、安心して安定している生活。毎日違う明日が来るけどきっとこのまま上手くいくと疑うことすら知らないような、退屈する夏休みの小学生みたいな。自覚することすらない本当の幸せを皆が信じていて。
 だけど何故自分が二五九番地、地獄へ落とされたかはなんとなく分かった。
 自殺したからじゃなく、「それを疑う」からだ。人の親切を、『幸福な明日』を。ずっと上手くいくと、皆がやさしくて良い人で親切で、そしてそれが無くならないもので世界が安全だと思い込めるそれが理解出来ない、し得ないから、なんならいっそ愚かしいと笑うから。
 私があんなとこ住めるわけがなかった。
 
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 ここへ来てまだ10日目だけど、引っ越すことにした。こっちのが馴染みがあって住みやすいから。
 向こうの職員の方にはご親切に引き止められたが、今ではあちらの方がかえって吐きそうだったし、私が居なくとも向こうの幸福な生活に変わりはない。
 もう既に一◯五九番地での素晴らしかったハズの暮らしを忘れつつある。どんなものだったか今では遠い過去のものだし、二度とあそこには戻れないが別に愛しいとは思わない。
 
 脳はヒビ割れ世界は鮮やか過ぎ引き攣れガビガビだけど、慣れてるし普通に暮らしてけるから大丈夫。
元気にしてるよ。

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